桜上の月
"over the cherry blossoms"

Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya. 00' Apr.

 ───今頃だっただろうか。
 その情景は鮮やかに覚えていたとしても、前後の記憶はあやふやだ。
 けれど、その風景の中ではあの花が咲いているのだから、4月の今頃であるのは間違いはない。
 目を閉じれば今でもそこに咲く。
 冴えた蒼い夜を鋭くえぐったように浮かんでいた月と、夜露を含んで輝く───桜。
 
+++
 
 待ち合わせをしていた時間から、既に20分も過ぎていた。
 遅れる、ということは、相手の携帯に連絡を入れてはいるが、誘ったのがこっちである手前、これ以上待たせるわけにはいかない。
 電話の向こうで、
「いいですよ。今日の俺は滅茶苦茶暇人やから」
 相手がそう言ってくれていたとしてもだ。
「いいんですか、そんなこと言ってて」
 申し訳ない気持ちでそう言うと、相手は───たぶん苦笑しつつ───言った。
「言わせといて。やっと昨日一本上げたところなんやから」
 実際あと一本の締切を抱えていることを片桐は知っていた。
 その話に取りかかるために、気分転換を図りたかったのだろう。気持ちは分かる。
 それならば、と誘ったのは自分だ。
 それなのに待ち合わせに遅れて、忙しい───それが一時期的なものであったとしてもだ───作家に無駄な時間を潰させてしまっているのだから、「編集者としては、まちがってるかなぁ」と頭を抱えてしまいたくなる。まぁ、そこで時間を気にしすぎてしまうのは、もしかしたら職業病なのかも知れないが。
 歩道橋を渡ってしまえば、待ち合わせ場所はすぐそこだ。
 時計を見る。
 30分だ。
 ───ああ、もう。
 片桐は拝むように手を組み合わせる。
 今日は僕がおごってやろう。おごらせていただきます。
 そう、片桐は沈みかけている太陽に向かって誓った。
 
 待ち合わせの相手は、待ち合わせをしていた店の前より少し離れた植え込みの煉瓦の上に寄りかかるように腰をかけて、手元の本に視線を落としていた。
 片桐が担当をしている作家───有栖川である。
 持っているものといえばそれくらいしか見えなかったので、もしかしたら時間つぶしのためにその辺の本屋から購入した物なのかもしれない。
 声をかけようとして、少しだけ躊躇した。
 本を見ている有栖川の口元が少しだけ笑みをのせているのが見えたからだ。
 なにか、おもしろいことでも本にのっていたのだろうか。
 よほど集中して読んでいるのか、目の前に立っても、有栖川は顔を上げることすらしなかった。
「こんばんは、有栖川さん」
 声をかけると、やっと有栖川は顔を上げた。
「ああ、片桐さん」
 ぱちぱちと、瞬きをする。
「早かったですね」
 …本当に熱中して読んでいたらしい。
「電話をかけてから30分は経ってますよ?」
 有栖川は時計を見て「なんや、もうそんな時間経ったか」とつぶやいた。
「すみませんでした。誘ったのはこっちなのに遅れてしまって」
 ぺこりと頭を下げると、有栖川は僅かに笑った。
「忙しいのは知ってますからね」
 有栖川は、持っていた本を何故か慎重に閉じ、ゆらりと身を起こした。
 閉じた本を小脇に抱えて、腰の辺りを払う。
「随分と熱心に読んでましたね。なにかおもしろいこと、のってました?」
「え? ああ───これ?」
 本のカバーをぺらと外して見せてくれた。
 題名を口に出してなぞる。
「───『天才パズル』」
 いわゆる頭の体操系のパズル本だ。クロスワードやら、推理問題が乗っているような、あれである。
 予想していたものとは少し違うその本に、片桐はちょっと頭を掻く。
「もっと高尚な物を期待してました?」
 カバーを元に戻しながらそう言った有栖川に、片桐は曖昧に笑って誤魔化した。
「ずいぶん楽しそうだったから、どんな本かと思って」
「楽し…?」
 有栖川は怪訝そうに眉を寄せた。
 なんだ、気付いてなかったのか。
「笑ってましたよ」
 有栖川は「うわ」と呟いて右手で口元を覆った。
「ほんまに? や、無意識やったわ」
 ぺしぺしと自分の頬を叩く。照れ隠しだ。
「まぁ、おもしろい本には間違いないですね。どんな問題があったんですか? クロスワードか何か?」
 有栖川は苦笑して、
「はずれ、やな。たぶん、違います」
 しおりを挟んでいたページを、そろりと開いた。
 ───たぶん?
 なにか大事そうな仕草に好奇心がわいて、その手元を覗き込むと───意外な物がそこにあった。
 クロスワードパズルが書かれているモノクロのページに浮かび上がる、薄紅色の小さな花弁。
 目を見開く。
 見間違えようもない。
「…桜?」
 ───桜の花びらだ。
 途端、記憶がフラッシュバックした。
 
 夜闇に浮かぶ、満開の桜。
 
 片桐は思わず顔を上げた。
 有栖川はにこりと笑った。
「え、でも、ちょっと待ってくださいよ」
 辺りを見回す。
「桜の樹なんか、この辺、一本もないじゃないですか。一番近いところだって、たぶん数キロは離れてて」
「せやから俺も驚いた」
 有栖川はやはり大事そうに本を閉じた。
「さっき、荷物積んだトラックが通ってね。どこから来たのかは知らんけど、桜の樹の下に止めてたか、その下を通ってきたかしたんやないかな。本を読んでたら、突然こいつがふってきたんです。なんか、訳もなく嬉しくなってね」
 笑ってしまったのはたぶんこいつのせいですよ、と、有栖川は照れたように頭をかいた。
「ああ───でも、気持ちは分かりますよ」
 記憶の欠片を一瞬にして呼び起こしてくれた、小さな花びら。
 それをただ一瞬見ただけで、片桐の心の中にも鮮やかに何かが咲いた。
 忘れかけていた記憶がふっと呼び起こされたような。
 そう言うと、有栖川はうなずいた。
「ああ、それはあるね。俺も、大学の桜、思い出した」
「有栖川さんが桜を見て思い出すのは、学校の桜ですか?」
 片桐が聞くと、有栖川は考えるように腕を組んだ。
「そうやな。どこの学校もそうやけど、学校の桜の樹ってやたらと立派な樹が多いやろ? だからかな」
 彼の大学の桜もまた見事だ、という話は聞いている。桜並木とはまた別に、趣のある桜が咲いてるのだと、自慢げに言っていたものだ。
「そういう片桐さんは?」
 浮かんだ記憶の欠片をつかんだ手のひらを開く。
 ───僕の中に咲く桜。
「僕は───夜桜です」
 
 国道の裏道を行ったところで、車通りは結構あるが人の歩いてるのはあまり見たことのない、いわゆる郊外。
 そこよりさらに辺鄙なところにすんでいる作家の原稿を受け取りに行ったそのかえりに見つけた、薄闇にぼんやりと浮かぶ白いもの。
 それが桜であることに気付いたのは、その前を通りすぎようとした時だった。
 発する灯りがあまりに微かすぎて、それ全てを照らすには足らなかったのだ。
 灯りの発生源は、石灯籠。
 ゆらゆらと揺れる灯りに浮かび上がる───満開の桜。
 自身の許容量一杯に花をつけ、その上の月を隠す。
 どれだけの年を重ねた樹なのか。見上げるほどに大きな桜の樹だった。
 飽和してはらはらと落ちる花びら。その、影。
 郊外とはいえ、ヒトの住んでいない場所に咲いているわけではない。その場所も、個人宅の庭先だった。それなのに、その気配すら感じさせない静謐。
 ぞくりと震えた。
 怖かったわけではない。
 桜という樹をこういう風に見たことが無かったことに、改めて気付いた。
 ───綺麗だ。
 それしか浮かばない。そんな花を見たことが。
 
 有栖川は右手で左腕をなでた。  
「───凄い、鳥肌もんですね」
「もともと桜は嫌いじゃなかったですけどね。でもあんな風に見入ったのは初めてだったなぁ」
 闇に慣れれば、月明かりが後押しをする。
 まるで桜自身が発光しているのではないかと思えるほどの、存在感。
 それに圧倒されて、しばらくの間そこから動けなかった。
「その場所、ここから近いんですか?」
「さすがに、車じゃないとムリですね。それでも二時間くらいはかかります」
 答えると、有栖川は残念そうにため息をついた。
「話だけやなんて殺生やなぁ。なんやもう、めちゃくちゃ桜見に行きたなったわ」
 片桐は苦笑する。
「今からじゃあ、どこもかしこも花見客でいっぱいですよ」
 桜の下で浮かれまくっているヒトの大群を思いうかべて、それだけでうんざりする。
「花を見ない花見客がね」
 有栖川は肩をすくめた。
「桜の花が見たいのであって、酒を飲みたいわけやないんです」
「気持ちは分かりますが、この辺じゃ到底無理でしょうね」
「やれやれ。次の休日は、花見やな」
 きっと、彼の中に咲くもっとも綺麗な桜に会いに行くつもりなのだ。
「誰の中にも桜は綺麗に咲いてるもんですね」
 有栖川が言った。
「花を見ない花見客は、自分の中に桜が咲いているのを見ているのかも知れない」
 それでも「桜」じゃなければならないのだ。
 有栖川の元に偶然たどり着いたあの桜の花びらを見た瞬間に、一瞬にして自分の中に咲いた桜の樹。
 今もまだ、あの場所で咲いてるのだろうか。
 石灯籠の灯りに揺れているのだろうか。
 それとも、もう既になくなってしまっているかもしれないけれど。
 それでも、構わない。
 
 僕の中にも、桜が咲いている。
 
「───僕も今度、見に行こう」
 そう言うと、有栖川は笑った。
「そん時は俺も連れていってください。───今度は、ちゃんと時間を合わせてね」
 片桐は手を合わせて、改めて有栖川に頭を下げた。


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