
桜下の死体
"under the cherry blossoms"
Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya. 00' Apr.
息を吸い込むと、桜の香りが鼻孔に広がった。
我が母校の英都大の敷地内には数十本の桜があり、そして並木道より少々はずれたところにも数本の枝垂れ桜がある。
花をつければ実に美しい桜の樹なのだが、花も葉もない時期の樹の垂れた枝は通りからはずれた場所柄もあって陰気くささを感じるのか、花を咲かせた今になっても、花見としゃれ込む学生達の姿はそこにはなかった。
15年前のこの時期もそうだった。
陽光にふわりとほころばせている花弁の色が素晴らしく美しかったことを覚えている。
現在、どんな噂が立って人が近寄って来ないのかは知らないが、美しさや見応えの点で、他に引けを取るものではない。大学を卒業してからも2,3度来たことがあるが、その時もやはり人影はなく、それでも桜の樹は相変わらず見事な花を付けていた。
そんな桜の下に、私───有栖川有栖は、学生気分で寝そべっていた。
下から見上げる桜の枝は、まるで私を覆うように垂れている。
今日の素晴らしい天気のせいもあってか、桜はまさしく満開だった。
「今年も綺麗に咲いとるな」
他に褒める者がないこの桜へ、せめてもの賛辞だ。
花見をするならここは穴場中の穴場と言っていい。
静かに花を愛でるなら、もってこいの場所だ。
目を閉じて春の陽気と花の香りの中に身を任せていると、ふと頭上から声がした。
「───桜の下から死体が這いだしてるな」
吹き出しそうになった。
なんという言葉だ。
誰が言っているかなど、目を開けて確認するまでもなかった。
「『桜の樹の下には』か?」
「そんなところに寝ていると、桜に血を吸われるぞ」
私は目を閉じたまま小さく笑い、
「もう遅い」
腕枕を崩して、立てた人差し指で頭上の桜の樹を指した。
「見ろよ。既に俺の血で薄紅色に染まってるやろ?」
ふと息をつく音。
「ああ───そうだな。…見ろ。お前の血を根こそぎ吸い尽くそうと、その触手を伸ばしてきているぞ」
言われて思わず目を開けると、手のひらが眼前をふさいでいてぎょっとした。
火村の手だった。
一瞬、桜の枝が本当に人の腕となり手となって私を捕らえようとしているのかと錯覚して、ぞくりと体が粟立った。
そんな感情が表情として出てしまったのか、火村は突き出していた手をポケットの中にしまい、喉の奥で押し殺したような笑い声を上げた。
「趣味の悪い」
恨みがましくにらんでやると、火村は笑みを唇に張り付けたまま肩をすくめた。
「好んでこんなところに来るお前の感性の凄さにはかなわねぇよ。お前には恐怖心というものが欠落しているらしいな」
どうせおどろおどろしい噂が立ってるということを言いたいのだろう。
そんなものは私の知ったことではない。
私が経験したわけでもないことを、わざわざ怖がってやるような義理もない。
「よう言うわ。どうせお前も、変な噂で人の来ないことをいいことに、教授連から逃げるためにでもここに来たりするんだろうが」
「桜の季節はな。学生時代、お前が好奇心の強さを発揮していろんな穴場を見つけてくれていたおかげで、重宝してるよ」
「なんや。ほんまにサボりの場所に使ってるのか? 助教授。職務怠慢やな」
火村は私の隣に腰を下ろし、桜の幹に寄りかかりながら煙草と携帯灰皿を取り出した。
箱から一本取り出したのを見て、私は言った。
「俺がここにいるって、よう分かったな」
「ん?」
「それに、ウルフ先生はどうした?」
この場所に来る前に、茶の一杯でもごちそうになろうと一度火村の研究室に立ち寄っていたのだが、その時彼は不在で、その代わりに、という訳ではないが、同様に火村に用があって来ていた彼の同僚であるジョージ=ウルフに伝言を頼んできたのだ。
「ジョージに聞いたから、こうして来てるんじゃないか。簡単なもんだ、この時期はここによく来てたからな。───「15年前の桜の下で待つ」なんて、生き別れた恋人同士の約束みたいな言葉吐いてるんじゃねぇよ」
「ミステリーかサスペンス調を狙ってみただけなんやけどな。ウルフ先生にも一緒に花見しましょうって言ってたんやが、お前、先生置いてきたのか」
火村は「いや」と首をふって、煙草をくわえた。
「茶を用意してくれてる。場所はここだと言っておいたから、そのうち来るだろ」
「ふうん? イギリス紳士やからな、先生。もしかして、紅茶か?」
「多分な」
ウェッジウッドのカップを持ち出されてきたらと考えると、すこしおかしい。
まぁ、あれだけ流暢な日本語を話せる先生が、日本の花見と聞いて、まさかそこまでとぼけたことをしてくれるとは思わないが。
「紅茶とこれの相性はどうかな」
私は、頭の上に置いてあったものに手を伸ばし、袋ごと火村に渡した。
「…花より団子、か?」
包装を見て火村は中身を言い当てた。
「花見の王道───すまんな、発想が安直で」
つっこまれる前に私は言った。
「まぁ、緑茶だろうが紅茶だろうがどっちも茶には代わりはないし、合わんこともないだろ」
火村は寝ころんだままの私の胸の上に団子の入った袋を置き、たばこに火をつけた。
紫煙がゆらゆらと上っていくのを視界の端でとらえつつ、桜を見上げる。
ふと、気になっていたことを聞いてみる。
「10何年も経つのに、ここはいまだに人の気配がないんやな。今はどんな噂がたってるんや?」
私が在学していた頃は「すすり泣く女の声」だった。
桜の枝の葉擦れの音が、そんな風に聞こえたのではないかと、当時の私は考えていたものだが。
学生時代から大学に居着いている助教授は、煙草の先で携帯灰皿を叩きながら答えた。
「何年かごとに変わってはいるが、今は「誘う手」だったかな」
木の幹の陰から、細い腕が手招きをしている。白く美しい女の腕に惹かれて近づくと、突然地面から腕が生え、地下に引きずり込む。
桜はその生きながら埋められた哀れな犠牲者の血をすすり、より一層鮮やかな紅の色に咲き乱れるのだという。
「桜の木の下には死体、というのが根付いてる話で興味深いな。だが失礼なモンやな。お前は毎年こんなに綺麗に咲いてるゆうのに」
なぁ、と桜に声をかけると、答えるように枝が風に揺れた。
はらはらと、花びらが舞う。
「そのおかげで、静かに花見も出来るというもんだろ」
それもそうだ。
「花見日和だな」
陽光に輝く桜。こんなにも優しく咲く花なのに、どうしてこうも陰気くさい話の種にされてしまうものか、不思議なものだ。
この桜だけに限ったことではない。
桜という花には奇談がいつもついてまわる。
それだけ、人を惹きつけて離さない花だということなのだろうが。
「美しさだけなら、別に桜にこだわることはない。世の中いくらでも美しい花があるからな。それよりも惹きつけられるのは、「潔さ」かもしれないな」
「潔さ?」
「桜の美は散り際だ、と言ったのは誰だったかな。桜ほどに花どきの短さ、儚さがあるものはない。鮮やかに咲いて、鮮やかに散る。日本人がやたらと好む無常観にこうもぴったりの花はない」
「流転する世界をそのまま具現した樹か」
ただ一時、春を謳歌する。そのわずか一月ばかりの花を愛でるために、人は桜を植える。
「───無駄な行為だと思うか?」
「思わん」
即答すると、火村は微かに笑った。
「俺もさ。そう思っているうちは、俺もただの人だな、と確認できるね」
そうして煙草を口から離し、あくびをした。
「眠そうやな。最近、忙しかったか?」
火村は右手で瞼のあたりを撫でながら言った。
「陽気にやられたかな。今日は外にいるのが気持ちよすぎる」
「犯人は?」
「桜だろ」
煙草を灰皿に押しつけて、火村は芝生の上にごろりと横になった。
「死体は桜の糧になるさ。ジョージが来たら起こしてくれ」
「一応聞くが、お前、午後から講義は?」
「ない」
「なら、思う存分死体になってろ。起こせるかどうかは知らん」
碧眼の英語講師がお茶を持ってきてくれるまで持ちこたえられるか、私にも自信がなかった。
かつて「女のすすり泣く声」などと言われた桜の枝の揺れる音すら、私にはまるで子守歌のように聞こえた。
「お前の血を吸うんやったら、この樹、来年も大丈夫やな」
「その言葉、そっくりそのままお返しする」
笑いながら、むせ返るような桜と緑の香りの中に沈んでいく。
私は桜を見上げながら、ゆっくりと目を閉じた。
お前が美しく咲いてくれるなら、私は桜の下の死体になる。
私と火村の体を苗床に、咲け。
二つの死体を抱きしめるように、枝が揺れ、花びらが舞い落ちる。
4月半ばのその日、陽光は私達を包む桜と同様に、優しく暖かかった。