
風の還る場所
"someone's place"
Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya 00' Mar-Aug.
大学時代から長い付き合いのある友人、火村の下宿先である北白川への道を、私はゆっくりと歩いていた。
火村には「そのうちそっちに行く」とは言ってはいたが、今日だとは言っていないので、彼がいるかどうか、というのは知らない。もちろん、誰もいない下宿先を訪ねるのは馬鹿らしいので、家を出る前に彼の下宿の大家である時絵婆ちゃんには「お昼前にはつきます」とは電話はしてあるが。
───実際、火村はいてもいなくてもどうでもいいのだ。
私が今日北白川へ向かっているのは、火村がこの間の雨の日に拾ってきたという「桃」という猫に、会うためであったから。
「いらっしゃい、有栖川さん」
小次郎を抱いた婆ちゃんが私を出迎えてくれた。
火村曰く、「付き合うにはスキンシップが大事」という小次郎は、婆ちゃんに顎の下を撫でられて気持ちよさそうに目を細めている。挨拶代わりに額の辺りをつついてやると、小次郎は煩わしそうにちょいちょいと前足を動かした。
猫の仕草というのは、どうしてこうも愛らしいものか。
「火村さんも、いてますよ」
私はくすりと笑う。
火村「も」。
───今日の助教授は、私達の間では猫達の「おまけ」なのだ。
「今日は休みですか。どうしてます?」
「まだ、寝てはるんですよ。なんや昨日、夜遅うまで何かやっとって」
論文にでもかかっているのかも知れない。
「寝させときましょう。今日は火村ではなくて、桃ちゃんに会いに来たんですから」
そういえば、その桃はどこにいるのか。小次郎以外、猫の姿はないようだが。
「それがねぇ」
婆ちゃんは困ったように首を傾げた。
「ついさっきふらっと外に出てしまったんよ。有栖川さんが来るから、ご飯出して引き留めよう思うてたんやけど」
猫の気まぐれには、人間の思惑などおよびもつかないようだ。
「残念。火村がナンパしてきた猫やと聞いてたから、どんな美猫かと楽しみにしてたのに」
婆ちゃんは、笑って「可愛い子ですよ」と言った。
息をつく。いないなら仕方がない。
「じゃあ、代わりに火村の顔だけ見てきますか」
お土産を渡して、私は二階へと足を向けた。
「火村さん、起きれるようやったら、一緒にお昼食べよう言うてきて。有栖川さんも、お昼一緒に」
うなずいて、私は火村の部屋に向かった。
扉をノックはしたが、返事はなかった。
予想はしていたことなので無視してノブに手をかけると、扉はあっさりと開いた。
不用心だとは思ったが、火村の部屋のどれが大事な物なのか、というのは一見して分かるようなものでもないから、いらぬ懸念であるかも知れない。
中は相変わらず雑然としていた。
散らかった本は、到底私が読めるような文字でないもので書かれてあるものが多い。
机の上には、なにやら部屋には不釣り合いなノートパソコンと走り書きのメモ。あるいは原稿やノート、書類、資料が散在している。
心なしか埃っぽく感じて、私はまず窓を開けた。
今日は風もないいい天気だし原稿が吹っ飛んで困る事もないだろう。
火村は本の山に埋もれるようにして、自分の腕を枕に横になっていた。
タオルが首に引っかかっている。
おそらく、風呂に入った後なのだ。そのままちょっと横になったところで、睡魔に勝てず眠ってしまった。───そんなところか。
髪をろくに乾かしもしないで寝てしまったのだろう。いつもぼさぼさの髪が、さらに輪をかけてぼさぼさだ。助教授の休日はそれほど優雅なものではないらしい。
まぁ…いまさら、火村に優雅さなど期待はしないが。
ことさらに音もたてたわけでも声もかけたわけでもなかったが、助教授は僅かに顔をしかめて、ふっと目を開けた。
ぼんやりとこちらに向けられた視線に、私は手をあげる。
「よぉ、起きたか」
「…アリスか?」
眩しそうに目を細めた火村が言う。
「なんだ、お前…突然…」
寝ぼけているのか、ぶつぶつと呟くように吐き出される。
寝ている火村の頭の上から覗き込みながら私は言った。
「顔見に来ただけや。桃ちゃんに会えんかったんでな」
「…桃?」
「起きれるようやったら婆ちゃんが一緒に昼飯食おうて言うてたで」
火村は左手をあげた。腕時計を見ようとしたのだろうが、そこには何もなく、
「今、何時だ」
「11時半」
「一時間くれ」
言うなり、上げていた左手をぱったりと落として目を閉じてしまった。
相当に眠いらしい。
もとより、起こすつもりもなかった。
「承知した。後で起こしにきてやる」
きびすを返した私の背に、
「…桃、いなかったのか?」
ぼんやりとした火村の声が追いかけてきた。
振り返って火村を見る。火村は目を閉じたままだ。
「ああ、ついさっき外に出たって。───大丈夫なんかな。元野良やろ、桃。帰ってこないって事はないか?」
「帰ってこないなら、それでもいいさ。───俺達より、よっぽど強く生きられる奴らだ。それに」
火村は少し身じろぎして、まとまりのない髪をかき上げた。
「───戻ってくる。……から、な」
よく聞こえなかった。
「なんやて?」
聞き返しても、火村からの返事はなかった。
代わりに、寝息が戻ってきたので、無理に起こして殴られるのもごめんだった私は、息をついて部屋を出た。
+++
ここ数日、創作を詰めていたために食傷気味だった私は、火村が寝ている間、腹ごなしの意味も含めて散歩に出ることにした。30分も歩けば少しは気分もよくなるだろう。
なにより、婆ちゃんが昼食の準備に入ってしまっては私もする事がない。
火村に言えば「爺くさい」と言うかも知れないが、散策に出ることは嫌いではない。
風景そのものから引き出される雑多な空想に身を浸らせる。小さい頃からの空想癖のおかげで、そういう楽しみ方が出来るのだ。
玄関先で、小次郎が私を見送ってくれた。
もちろん、小次郎がほんとうにそのつもりでそこにいてくれたのかは知りようがないが、そう考えていたほうが、気分がいい。私が出掛けようとしているのをじっと見ていたので、私は「行って来ます」と小さく呟いた。
具合が悪くなりそうな車通りをよけて裏通りに入る。今日は天気がいいので木陰のコントラストが鮮やかだ。
古めかしい焦げ茶色の木の塀に惹かれて、それをたどるようにして奥に入っていくと、ちょっとした空き地に出た。そこだけ雲がぬけたように明るく感じる。
木陰の中を歩いてきたので、そう感じただけなのだろうが。
辺りに新築工事があるわけでもないのに、空き地に積まれた角材はなんのためのものなのか。分からないが、それもまた私の空想をかき立ててくれていい。
木の葉の音がする。
少し風が出てきた。
ふと、火村の部屋の窓を開けてきたことを思い出す。
「…しまった」
開けっ放しで来てしまったが、火村の部屋の中は大丈夫だろうか。
確か、机の上にはいろんな原稿やら書類やらが広がっていたはずだ。すっ飛んでいたら、殴られはしないまでも、ことさらに冷ややかな目でにらまれるに違いない。
そんなことを考えていると、風の音に混じって猫の声がしていることに気付いた。
視線を巡らすと、私の歩いてる道に沿うようにそびえている塀の上に、一匹の猫が歩いているのが見えた。
細身の、砂色のトラ猫だ。
こちらを見ている───ように見えるが気のせいだろう。猫はそこから惰性で2,3歩動いた後ぴたりと足を止めて腰を下ろした。
あくびをしている。
後ろ足で耳の辺りをかいて、そのまま───数秒。
また、猫の声。
ひょい、とその猫のとなりに、塀の向こうから一匹の猫が躍り出てきた。
こちらの模様は、色の濃いブラウンタビーというのが一番近いかも知れない。木々の間から漏れてくる、ちらちらと瞬く陽光に当たると、色が変わって見えるのでよく分からなかった。ただ、鼻先から腹、足は白い。それがいやに鮮やかに目に付いた。
猫達は歩き出した。軽やかな足取りで。
私も歩き出す。
途中、砂トラの猫が塀の向こうの中に消えた。一匹の猫が残った。
塀の向こうは人家のはずだが、奇妙なことに人の気配が感じられない。平日の昼間なのに、誰もいないのか。出掛けているにしても、いやに静かだ。
塀に囲まれたその家だけでなく、隣家も静まり返っている。
まるで私一人だけが誰もいない町の中に迷い込んでしまったような。
そう思えば、景色がみょうに古めかしく、一昔前にタイムスリップでもしたように色あせて見える。
そぞろ歩く、私の前には猫がいる。
追いかけているつもりもなかったが、私が歩く目の前には、何故かその猫が歩いていた。
どこへ行くつもりなのか。
我知らずに、私は呟いていた。
「───おまえ、どこに行く?」
問いかけても、返事を返してくれるものはないのに。
「帰るのか?」
何気に呟いた台詞に、自分でどきりとする。
どこへ帰るのか。
そも、野良猫に帰るべき場所というのはあるのだろうか。
ひやりとした。自分の放った言葉が、ひどく傲慢なものにすら思えた。
猫は足を止めた。
風を見るように、空を見つめる瞳。
───どこへでも行く。
そう、答えているかのようだった。
「そうか」
猫が振り返って私を見る。
今度は間違いなく、私を見ているようだ。
辺りに動くものといったら、私の他には風に揺れる枝と葉ぐらいのものだったから、珍しかったのかも知れない。
突き刺すようなその視線を、正面から見返す。
───お前の邪魔をするつもりはないよ。
見て、歩いているだけだ。
私の声ならぬ声に気付いたのかどうか、猫はまたふいっと顔を上げて歩き出した。
えてして、猫とは気まぐれなもの。
こみ上げた感情は、笑みとなって浮かんで消えた。
たぶん、私はこの路地の、乱歩か横溝の小説を読んでいるときに感じるような、あの古めかしい雰囲気に酔っている。
いい気分だ。
古い木の匂い。色の変わった塀の上を猫が歩いていく。
葉擦れの音。
音という音は───それしかない。
猫は前足をなめて顔をひとなでしたあと、現れたときと同様にひょいと塀の向こう側に消えた。
「あ…───」
自分のその声がまるで合図ですらあったように、ぱぁんという何かがはじけるような音が響いた。
───途端に、聴覚に音があふれ出したのを感じた。
一気に、辺りが現実味を帯びた。
いつのまにか車通りに戻ってきていたのだ。
はじけたようなあの音。
あの音は、勢いよく走り去っていったバイクの音だったのだろう。
今の今まで、葉擦れの音しか聞こえないなどと思っていたというのに、これほどに世界には音があるのかと驚くほどに、私は、雑多な音に包まれていた。
時計を見ると、12時20分を指していた。
それほど歩いたつもりもなかったが、結構長い時間を歩いていたらしい。
車通りを歩けば、火村の下宿にはそれほど時間もかからずに戻れるだろうが…なんだか妙な気分だった。土地勘が狂っているのか。化かされた気分だ。
猫に? ───まさか。
自嘲気味に、微笑う。
そんなことを真面目に言おうものなら、口の悪い友人に馬鹿にされるだけだ。
振り向き、塀の上をながめる。
あの猫は───どこへ行ってしまったのだろう。
塀の上にはなにもない。
古めかしく思えた、あの風景も。
そこには行く先の知らない、風が吹くばかりだった。
+++
「ただいま戻りました」
玄関から声をかけると、婆ちゃんが台所の方から顔を出した。
「お帰りなさい、有栖川さん」
「火村は、起きました?」
「まだなんよ。桃もまだ帰って来とらんし。ウリとコオが茶の間で寝そべってますから、遊んでやってくださいな」
私は、茶の間に二匹の猫がいることを確認しつつ火村を起こすために二階へと向かった。
瓜太郎は茶トラで、小次郎は白黒の猫だ。
そういえば、桃は、どんな柄なのだろう。名前からはちょっと想像がつかない
部屋の扉をノックしても、案の定返事がない。
まだ寝てるのか、あいつは。
部屋にはいると、窓の方からふわりと風がふいてきた。
机上の原稿が吹っ飛んでいないことを確認して、安堵する。
火村に目を向けると、火村は先刻私が部屋を出る前と対して変わらない格好でまだ寝ていた。
───変わらない?
いや、変わったものが一つだけあることに、私は気付いた。
火村のそばに、寄り添うようにして眠る───
「───…「桃」?」
眠る───猫。
見覚えがある。あの猫だ。
私の前を歩いていた、あの猫だ。
───そうか。
君は、見つけたのか。
その場所に。
桃はぴくりと耳をそばだてて、顔を上げた。
私は笑って、火村の肩を叩いた。
「起きろよ、火村。一時間経ったで」
うめきながら、火村はぬーともぼーとも表現しがたい表情で起きあがった。
「もう、一時間か?」
「俺は散歩にまで行ってきたで」
なにか言いたそうに火村は口を開けたが、寝ぼけた頭では台詞も出てこないのか、立てた片膝に肘をつき、ぼさぼさの髪をかき上げただけで終わった。
桃が、にゃあ、と鳴いた。
火村は桃の方に視線だけを向け、僅かに笑った。
「よお、桃」
桃はもう一度鳴いた後、開いてる窓のほうへ歩いていき、ひらりとその向こうに消えた。
見送って、
「さすがに、腹減ったな」
火村が立ち上がる。
「朝も抜いて寝てりゃ、腹もすくやろ」
「それもそうだ」
笑ってやると、火村は腹をさすりながら洗面所の方へ消えていった。さすがにぼさぼさの髪のまま婆ちゃんの前に出る勇気はなかったらしい。
火村がそこから出てくるまでの間、私は桃が消えていった窓をながめていた。
名残のように吹く風に、カーテンが揺れている。
───聞き取れなかった火村の言葉。
あれはたぶん、こう言ったのだ。
───知ったから、な。
火村がここで眠る場所を得たように。私にも───帰る家があるように。
ここが、自分が帰ってきてもいい場所であることを。