
時の狭間 −400年に1度の夜明け−
"new daybreak"
Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya 00' Feb-Mar .
その『日』に気付いたのは、たぶん、ほんの少し、違和を感じたからだ。
カレンダーを眺めていたのは、次回作のネタにしていた日付誤認のトリックの矛盾に気付いて、訂正案を思案していたからだ。
カレンダーの中を泳いでいた視線が止まったのは、ただそれだけの意味だと思う。
4年に一度しか来ない日。
久しく眺めることがなかった、その───「2月29日」という日付。
「───そうか」
今年は閏年だ。
+++
「だからどうした。オリンピック開催年が、なにかありがたいとでも?」
感動に欠ける台詞を吐いた口の悪い友人 火村は、そう言って唐揚げを口の中に放り込んだ。
彼のフィールドワークにつきあったその帰り、私達は呑みながら事件を初めから話し合うことで一日の区切りをつけようとしていた。
閏年なんかの話題になったのは、明日がちょうどその4年に一度来る29日だったからにすぎない。
過ぎないが、今年はちょっとだけそれに対する気分が違う。
「埋もれている愛国心を掘り起こすには絶好の機会だがな」
閏年といえば、助教授の連想はオリンピックらしい。
国際的行事のオリンピックをそれだけで済ますのはなんだか申し訳ないが、実際私の気分も火村の言うことと似たようなものだ。
愛国者などと言うつもりはさらさらないが、私もこの時ばかりは自国の選手を諸手をあげて応援してしまう。日頃スポーツなんてものは、野球以外はまともに見ていないのにも関わらずだ。
体一つでここまでやれるんだ、という力を見せてくれるスポーツ選手を見てるのは、年代を超えて、ヒーローに憧れる子供のような心境だ。
だが、とりあえず───今の話題は、オリンピックではない。
私は空になったグラスにビールをつぎながら言った。
「閏年と聞いてオリンピックを思い出す健全な精神を持っとることを確認できて結構なんやが、オリンピックの話やなくてな。今年は特別な年やったな、という話」
「ふぅん?」
火村はどうやら、私の言った言葉に適当な解釈をつけることが出来なかったらしい。
「おや、先生。聞いたことはございませんか?」
私がからかうように笑ってやると、彼は小さく肩をすくめた。
4年に一度、2月29日という日が増える───というのが閏年。これを知らないものはまずいないだろう。閏年を決める基礎法則だ。
4年間に1日増やす、という太陽を巡る地球時間の誤差の修正は、現西暦に採用されているグレゴリオ暦以前からも採用されてはいるのだから、その歴史は相当に古い。
その分当然、誤差を修正するための閏年にも誤差が出はじめる。だいたいにおいて太陽を巡る地球の日数というのが半端な数字なのだから仕方のないことなのだが。
「このままではいかん」と改暦されて出来たのがグレゴリオ暦だ。その単純な法則では130年に1日の誤差───気の長い話だとは思うのだが───が生じてしまうため、100でも4でも割り切れる年、世紀末を閏年とはせず平年とすることで、閏年を減らした。これによって、その誤差を約3300年で1日───これまた気の長い話だ───というところまで精確なものにしたのだ。
4年に一度という閏年の基礎法則に、世紀末を閏年とはせず平年とする、という例外がくわえられた、それが閏年の第2の法則だ。
「せやけど、それではまだ足らないんやな」
火村は、ゆっくりとビールグラスをゆらしていたが、やがて気付いたように声をあげた。
「───ははぁ。おまえの言いたいことがわかったぞ」
「そうか。頭の回転がいい奴は話が早くていいな」
火村は皮肉気な笑みを浮かべる。
「ロマンティストぶりはあいかわらずだな」
「感性が豊かなんだと言ってくれへんか?」
火村は聞かなかったふりを決め込んだようだ。
「その誤差の修正というのは400年に100回あった閏年を97回に減らす、というものだったな。その二つの法則で行くと、2000年は平年だ。だがそれでは閏年がまた減り、96日になり、誤差を大きくする。そこで───第3の法則の誕生だ」
「知っとったか。その通り」
例外の例外の法則が登場する。
100でも400でも割り切れる年は「閏年」とする。
つまり、今年2000年2月29日とは───
「400年に一度、巡ってきた日なんや」
火村がふっと唇の端を上げた。
「ついこの間、ミレニアムだ何だと騒いでいた年越しを終えたばかりなのに、400年がそんなに珍しいか? おおかた、そういう特別な日こそ、こんなおっさんとじゃなく綺麗な女性と過ごしたかった、とか思ってたんだろ」
心外だ。
「そこまで俗っぽい考えをしたつもりはないで」
「どうだか」
まるきり信じていない事が、その意地の悪そうな笑みで知れる。
テーブルに肘をついて、右手に持っている箸の先で私を指す。
「400年に一度、とお前は言うがな。世紀単位で経験できもしない俺達にとっては、閏年の第2の法則すら忘れずに認識するのも難しいだろうが。およそ無縁だ。俺達が「経験した」と認識できるのは4年に一度がせいぜいだ。だったら、明日も4年後の明日も同じように巡るただの1日だ。それのどこがありがたい?」
いかにも現実的な言葉に、私は嘆息する。
「お前はほんとに夢がないな。そんな大きな節目に、リアルタイムで立ち会うことが出来る奇跡に、感動したりはせぇへんのか?」
「言うと思ったよ、ロマンティスト」
いい加減に私の思考原理を見抜いているらしい。
火村は箸でエビチリをつつきながら言った。
「アリス、いいことを教えてやろうか」
「なんや」
「奇跡なんてな。その辺にいくらでも転がってるぜ」
唐揚げをつついていた箸を止めて、火村を見返す。
何をボケたことを。そんな大安売りな奇跡があるわけがないではないか。
その思いは顔に出てしまったようで、火村は目をすがめて私を見た。
「納得してないな?」
「当たり前や。いくらでも転がってるんだとしたら、それは『奇跡』やない。『日常』か『常識』というんや」
「定義を話せばそうだろうな。『奇跡』というのは『常識』という意識を持った上で初めて感じる現象だ。そうだとしたら、『常識』とはどこまでのことをいうのか。そいつらは時代や地域に合わせて化け物みたいに千変万化し、さらにそれらを内包する人の意識によって様々な位置にまで分裂するというのに。その『常識』を持って、ある現象を『奇跡』と位置づけるんだ。だったら───その解釈はどこまでも自由だろ」
エビを一つ、口に運ぶ。
───どうでもいいが、話している事と行動がどこかちぐはぐだ。ふざけてるのか真面目なのか、判断がつかない。
「奇跡とは、その現象を受け取る者の意識による、とお前は言いたいのか?」
火村は眠そうに目を細めている。首を振る。
「違うな。単なるきれい事の話をしようとしているだけだ」
意味をつかめず私が沈黙していると、火村はわずかに笑った。
「こういう考えが一つある、というだけの話だ。マスメディアに大きく取り上げられて騒がれるばかりが、「奇跡」じゃない」
「例えばどんな?」
火村は頬杖をついて目を閉じた。
「道ばたを犬が歩いていること。それを見ている猫がいること。頭上を鳥が飛んでいるということ」
私は吹き出しそうになった。
それこそ、「日常」そのものじゃないか。
私の内心のつっこみに気付くわけもなく、目を閉じたままの火村は続ける。
「道を歩いてるということ。天気が晴れであるということ。色々あるが、あとはそうだな…お前が小説家であること」
「こらまて。それのどこが奇跡や。俺の努力の結果を奇跡ですますな」
「失敬。間違えた。お前の本が書店に並んでいるということ」
にゃろう。
火村が笑っている。
「じゃあその論理から言ったら、お前も助教授であることも奇跡なんやな」
仕返しのつもりで言った言葉は、
「もちろんそうさ」
あっさりと肯定された。
「お前が目の前にいること。話をしていること。この場所で酒を飲んでいるということ。俺が、生きているということ───」
閉じていた目を、火村はゆっくりと開けた。
「それらはな、アリス。───無限大にあった可能性の中の一つであって、他にどうとでもあり得たかも知れない一瞬の風景なんだぜ。わかるか? ほんの10分、数秒前まで、それより先の『未来』というものには、怖ろしいほど多岐に渡った可能性が広がっていた。日常は、たった一歩の違いで何が起きるか分からない闇に目隠しされている。可能性はもちろんプラスにばかり向いているわけじゃない。マイナス方向への流れもまた、同時に存在している。今俺達が見ているこれは、その中の選び出されたたった一つなんだ。400年に一度も目じゃないほどの確率だ。それこそ奇跡的な確率で出会った一瞬だ。───違うか?」
───彼は神を信じていない。
決められた未来など、何ひとつない。どんな事象も、確約できない。
だから、彼が見るその風景は、彼が選び取った無限にあった可能性の内の一つだ。
「未来」が「今」になる、この瞬間にだけ、私達は存在を確認できる。
───日常としか言えなかった、その風景が、意味を持ち始める。
他愛のない日常が奇跡と見えるほどに、彼はそれらを愛おしく思っている。
その愛おしさが、日常を一瞬にして奪い去る「不条理さ」を嫌悪している。
それを、きれい事だと言う。───それが火村なのだと思う。
それこそ、かつて誰かの日常を破壊しようとした自分自身へと戒告。
自分は正義ではない。
そんなもので、自分を位置づけるな。
忘れるな。
───忘れるな。
「…屈折しとるな、お前」
ようよう呟くと、火村は火をつけた煙草のフィルタを噛んだまま言った。
「分かってもらえて嬉しいよ」
台詞ほどの感情の見えない声に、私はそっと息をつく。
「だてに10何年付きおうとるわけやないからな」
「ああ、知ってるよ。お前は物好きだ」
煙草を口からはなして、紫煙をはく。
ゆらゆらと宙を漂う煙に隠れた火村にむかって私は言う。
「それは、褒め言葉なんやろ?」
表情は見えなかった。ただわずかに、笑みを張り付けた口元だけが見えた。
それで十分だった。
+++
「───それにしても、なんだって昔の学者はこうも気の長い計算してまで時差の修正なんかしたんかな。お前も言うてたように、世紀単位のズレなんて、自分で体験して確かめることもできへんのに」
日本が閏年の3つの法則を採用した現暦に改暦したのは、たかだか130年ほど前の話だ。
それより前、月の満ち欠けを元にしていた旧暦においては、一年に11日ものズレがあり、3年に一度一ヶ月増える『閏月』などというものがあった。そうでなければ、「1月が真夏」などという季節のズレに陥ってしまうからだ。四季へのこだわりが大きい日本人らしいといえば日本人らしい、訂正の仕方だ。
実際、現暦への改暦を急いだのは、財政にひっ迫していた明治政府が「1年に13回も給料を払ってられるか」という実に現実的で切実な理由があったという話だが。
「…地球が太陽を巡っているからさ」
酔っているのか眠いのか、ぼんやりとした声の火村は左手でグラスを上からぶら下げるようにつかんで、持ち上げた。
「俺とお前が酒を好むように、昔の学者達は太陽が好きだった。好きだったから、自分たちがいる地球との関係にどうにかして理由と意味と関連をつけて、同じ時間を生きたかった。
人が意思を持って動くための原動力は、今も昔も同じだ。じゃなきゃ100年も1000年もかけて誤差の修正なんてするか」
私は笑ってしまった。
どんな理屈を並べられるより、納得できる気がした。
「お前も十分、ロマンティストやな」
私が言ってやると、助教授はなんだか具合が悪くなったように口元を手で覆った。
「やばい。うつったかな」
「おい、人を病原菌のように言うな」
「酔ってて抵抗力をなくしてるんだな。忘れろ」
ため息をつく。珍しい助教授を見てしまったものだ。
「そうそう忘れられそうもないな」
火村はグラスをつかんだままの左手の腕時計に見ている。
私もつられて腕時計を見る。火村が言った。
「───お前の言う、400年に一度の、夜明けだ」
いつの間にか、日付が変わっていた。
2月29日。
400年に一度の例外。
400年に一度の、夜と朝。
太陽と地球のズレが生み出した、時間の狭間に入り込んでいく。
───地球。
「ああ、なんや…忘れてたやないか」
呟いた私の声に、火村が顔を上げる。
「まさしく常識は千変万化、やな。あまりに日常過ぎて、奇跡の一つを忘れとる」
首を少しだけ傾げて、火村が先を促してくる。
「ここや、ここ」
私は人差し指を立てて床をさす。
「床が?」
「アホ」
火村が笑った。分かっているのだ。
「───だから言ったろ、奇跡なんてのはそこら中にあるって」
私達がいる場所は、様々な要因全てを「生命誕生」に変えた、奇跡の大地。
私達は既に奇跡の上に住んでいたのだ。