"key of recollection"

Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya 99' Sep.

 ───…リス。おい、アリス…
 
 どこか遠い場所から自分を呼んでいるような声に、私の意識は反応した。
 反応はしたが、上から重くのしかかられているとしか思えない体の重さに、うめくように身をよじるしか出来なかった。
 汚泥から引き上げられるような、とてもじゃないがすっきりとは言えない目覚めの感覚とともに、私は重い瞼をあけた。
 …誰だ?
「アリス」
 声が鮮明に響いた。
 私は喘ぐように息をついた。その息が熱い事に驚いた。
 なんだか体中がだるい。
「気がついたか」
 嘆息交じりのその声は、もう顔が見えなくても分かる。友人の声だ。
「…火村か」
 自分の声が笑えるほどに力がない。
 じっとりと張り付くシャツと、自分の前髪がうっとうしい。
「なんや…俺、どうしたんだ?」
 思考が混乱している。俺はどうしたんだ?
 なんでこいつがここにいるんだ。
「熱が高いんだ。寒いだろ」
 言われて、汗はかいているのに体は寒気に震えてることに気づく。
「こんな所に寝ててもしょうがねぇだろ。おおかた怠くて横になってたんだろうが…」
「…なんで、おまえ、ここにいるんや?」
 素朴な疑問に、火村は唇をゆがめるようにして笑った。
「お前の身の危険を感じてすっとんで来たとでも言われたいか?」
 私は力無く笑った。勘弁してくれ。そんな台詞は未来の嫁さんにでも取っておけばいい。
「学会帰りだ。昨日言っておいたと思ったがな」
「…そうやったか?」
「熱を出して寝てる奴を責めるつもりはねぇが……おい、飯は食ったか?」
「ちょお、待て…」
 急に言われても、頭がぼんやりしていて思考が働かない。
「いま、何時や?」
 火村は腕時計をちらりと見た。
「10時をまわったところだ」
「それ…もしかしなくても、夜の、やろな」
 私は言葉を紡ぐ自分の息の熱さを感じつつ、答えた。
「昼間から…記憶がないわ」
 火村は舌打ちした。
「飯も食ってねぇのか」
 私はぐらぐらとまわる視界に耐えて身を起こした。
「立てるか?」
「なんとか」
「だったら、その汗まみれの服を脱いで着替えたほうがいい。野郎を着替えさせてやる趣味はないからな。向こうで着替えて寝てろ。その間になんか作ってやる」
「…悪い」
 ありがたい話だ。火村が自炊できることに心底感謝した。
「おい、置き薬くらいはあるだろ。どこだ?」
 眠っていたソファから起きあがりベッドルームにふらふらと向かっている私に、火村の声が追っかけてきた。
「リビングの棚の中」
「分かった」
 棚をあさる音と、次いで台所で何かを作っているらしい包丁の音をBGMに、私は着替えだした。
「病人ほったらかしですまんが、勝手に使わせてもらうぞ」
 火村の声がした。
「何を今更…」
 勝手知ったる何とやら。さんざん使ってる台所だろうに。
 汗で濡れてしまった服を脱いでしまえばひやりとした空気が気持ちよくもあり、同時にぎしぎしと体を軋ませた。
 完璧に風邪をひいたらしい。
 日頃の不規則な生活がたたった、という事か。やれやれ。
 パジャマに袖を通して、ベッドに潜り込む。
「ソファ、借りるからな。悪いが、泊めてくれ」
「うつるぞ、風邪」
「俺がうつるほどやわに見えるか?」
「見えるから言うとるんや」
 火村の笑い声が聞こえた。
「それだけ軽口たたけりゃ大丈夫だな」
 実際のところ、それだけの軽口を言うのも、労力だったのだが。
 具合は悪いが、気分は悪くない。こういう時、人がそばにいるというのは、安心感を呼び起こしてくれるようだ。
 火村がやってきた。
「何か腹に入れておかないと、薬が胃にくるからな」
 どかどかと大ざっぱに刻んだ野菜スープだ。ニンニクの匂いがきついが…昔食べたことがある。キャベツが旨い。
「サンキュ」
「それを食ったら薬を飲んで寝ろ。あとは起きる度に良くなってくるさ」
「悪いな。折角来てくれたお客様の相手も出来んで」
「今までしてもらった記憶もないがな」
 火村のにくまれ口も、なにやら優しく感じてくるから不思議だ。
「皿はそこのテーブルにでも置いておけ。おやすみ」
「ああ───おやすみ」
 残さず平らげた皿を言われた通りサイドテーブルに置いて、私は薬を口に放りなげて横になった。
 そこでふと目に入ったのは隣の部屋の私のワープロだ。
 電源が入りっぱなしになっている。
 そういえば、寝込むつもりもなかったからつけっぱなしでいたのだ。
 だが、億劫でそこまで歩く気力もない。
 火村が気を利かせて電源を切ってくれればいいが。
 かなり他人任せな考えに落ち着いて、私は目を伏せた。
 
 しばらくの間、眠りに落ちることもなく何度か目を覚めた。
 覚めた、というのは正しくないだろう。うつらうつらと熱に漂って、夢と現実をうろちょろしているような感じだ。
 ひやりと額に冷たい物があたって目を開けると、額にあたっているのは、友人の手である事に気づいた。
「…なんや、おまえ、手ぇ冷たいな」
 ぼんやり呟くと、
「手の冷たい奴は心が温かいというだろ?」
「…ぬかせ」
 ぬけぬけと返ってくるそんな言葉にかえって安心する。
 夢うつつだから記憶はあやしいが、その後はたぶんすぐに眠ったのだと思う。
 夢は見なかった。
 
 ───ふと、目が覚めた。
 重苦しい目覚めではなかった。薬がいくらかでも効いているのかも知れない。
 時計を見ようとしたが暗すぎて見えない。
 この暗さなら、まだ朝には遠いのだろう。
 汗をかいたせいか、酷くのどが渇いていた。
 寝返りを打つと、隣の部屋がほのかに灯りがついているのが見えた。
 ───私のワープロの灯りだ。
 消してもらえなかったのか、とよく見ると、その前に椅子に座った火村の姿がぼんやりと浮かび上がった。
 じっと、画面を見ている。
「…?」
 その横顔。
 それを、私はどこかで見たような気がした。
 見慣れた友人の横顔なのだが、そうではなく、こんな風に彼の横顔を見たことが…どこかで。
 彼の横顔に、一つの風景がかぶる。
 彼の姿には、───今よりも若い彼の姿が。
 ───ああ、そうか。
 私は納得した。
 あれは、火村と初めて会った日。
 私の書いた小説を隣で読んでいた。あの時の彼の姿だ。
「…なにしとるんや、君」
 声を出すと、火村は顔だけこちらに向けた。
 ワープロの灯りが彼の左反面だけを照らしている。
 そういえば、なんで部屋に灯りがついていないのだろう。なにもそんな暗闇の中で見ていることもないと思うのだが。
「起きたのか。…気分は?」
「悪くない。何見てたんや?」
 火村は画面に視線を戻した。
「これ、次の新作か?」
「ああ…まだ途中やけどな」
「ふぅん…」
 火村は人差し指で唇を撫でて、言った。
「この続きはどうなるんだ?」
 私は吹き出しそうになった。
 今、それを言うのか、お前。
 私が昔を思い出していたことなど彼が知るわけは無いだろうが、まるで仕組まれた事のようで、私は笑いそうになるのを必死で押さえた。
「もちろん…あっと驚く展開と真相が待ち構えてるんや」
 悪戯のように、私はそう言ってやった。
 言葉が切れたのは、笑いそうになったからだ。
 火村は画面を見ながら何故か顔をしかめている。
 そうして天を仰いで、呟いた。
「…そうか」
 未完成の小説を見られている照れもあって、私は気を取り直して言った。
「悪いが、見終わったら電源消しといてくれへんか。昼間っからつけっぱなしや」
「ああ」
「あ、「保存」な」
 火村は私に向かってOKのサインをだした。
 カタカタといくつかのキーを叩く音がして、ふっと灯りが消えた。
 暗闇に向かって私は声をかける。
「火村、お前もしかして眠ってないんか?」
「ああ…といっても、あれから5時間程度しか経ってないぜ」
「大丈夫なんか、明日───…いや、もう今日か」
「たかだか一日寝てないくらいで、バテるような体はしてねぇよ」
 リビングの方に灯りが点った。
「腹減ってないか?」
「ん───…」
 私は腕を布団の中から出して髪をかきあげた。
 まだ腕がだるさを訴えているが、眠る前ほどのものではない。
「滅茶苦茶腹減ってるわけでもないな。───でも喉は乾いてる」
「薬の副作用だろ」
 コックのひねる音と水の流れる音がして、ややして水の入ったコップを片手に火村がやってきた。
「ほらよ」
 起きあがってコップを受け取る。
「至れり尽くせりで、ありがたくて涙が出るわ」
「いい友人を持って幸せだろ?」
「ああ、心底身にしみる。今度お前が寝込んだりしたら、夜通し看病してやるからな」
 火村は嫌そうに顔をしかめた。
 まぁ、そうだろうな、と思いつつ、私は受け取ったグラスを煽った。
 熱い体に一本、冷えた線が通っていくのを感じて、私は息をついた。
「まぁ、そうなったらそうなったで、頼むことにするか」
 そう言って火村は後ろのリビングを立てた親指でさした。
「眩しいかもしれんががまんしてくれ。ちょっとやりたいことがあるんだ」
 そう言われて、私はふと思い当たった。
 もしかして、部屋の灯りを暗くしていたのは、私の安眠のためだったのだろうか。
「かまへんよ。───いろいろすまんかったな」
 そう言うと、火村はちょっと笑った。
「気にするな。なかなかおもしろい話も見せてもらったしな」
 さっき見ていた私の小説のことを言ってくれてるのか。
「ついでだ。なんか作っておいてやる。今度目が覚めたら腹にいれとけ。リクエストはあるか?」
「軽いもんがいいな。さっきのスープと、御飯を少し炊いててもらえれば十分や」
「わかった」
 火村がなにやら笑っている。まるで悪戯を思いついた子供のように。
「…なんや」
 訝しげに聞くと、私の手から空になったコップを手に取りながら、火村は言った。
「いや…まさかここでカレーが食いたいとは言わんだろうな、と思っただけだ」
 それはまるで暗号のような───記憶の鍵。
「あ、アホか…っ」 
 私は耐えきれず吹き出した。
 風邪でいまだ軋む体をベッドに倒れ込ませ、身をよじって笑った。
 火村もくっくっと喉の奥で笑いながら隣のリビングに消えていく。
 時を越えて、記憶は私達をいまだに繋いでいる。そのことが可笑しくも嬉しかった。
 
 ───夢を見た。
 夢の中では、私も友人も大学生で、それに何の違和感も感じない日常的な風景を見ていた。
 たわいのない会話。
 今聞いたばかりの講義の話。しばらく後にある試験のこと。
 内容はたぶん意味がない。
 ただその風景だけが思い出される。
 それだけが鮮明に。
 懐かしさだけにつつまれた風景。
「…なんだか、懐かしいな」
 夢の中で友人がそんなことを言ったから。 
 
 もしかしたら、友人も同じ夢を見ていたのかもしれない。

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