朱の夢─アカ ノ ユメ─
"dream of blood"

Alice Arisugawa fan-fiction.
written by Kai Shiinoya. 99' Oct.

 ───酷い夢を見た。
 
 夢を見て飛び起きるなど、まさかこの私がすることになろうとは思ってもみなかった。
 心臓がドクドクと脈打ってるのが自分でも分かる。
 胸をかきむしりたくなるような息苦しさに、喉がひりひりと痛む。何か発作でも起きたように、呼吸がままならない。
 ───夢だ。
 私は必死で心の中で叫んだ。
 ───夢だ。あれは夢だった。
 叫ぶ。頭の中を渦巻く、暗い思考を蹴散らす勢いで。
 布団を握りしめている両手が震えている。そこから指を剥がそうとすると、それはぎしぎしと音さえするほど堅かった。
 私は、自分を落ち着かせるために大きく息をついた。
 吐く息までも震えているのが、自分でもおかしかった。
 これが、現実だ。
 大丈夫。───あれは夢だ。
 息を殺せば、自分の鼓動だけが聞こえるのみ。
 握りしめた拳を抱かえて、祈るように身をかがめる。
 静寂よ───すぐにこの記憶を抹殺してくれ。
 
「…アリス」
 ふと、静かな声を聞いた。───聞き慣れた、私の名を呼ぶあの声。
 はっとした。
 途端に、あたりの景色がやっと目に映ってきた。それほどに、今見たばかりの夢に、私の意識は奪われていたのか。
 ───そうだ。
 落ち着いて来た意識が、今の状況を確認しようと動き出す。
 私は、友人と一緒に、北陸くんだり旅行に来ていたのだった。
 ありがちな、宿の一室。まだ、夜は明けない。
 隣の布団には、当然、一緒に来ている友人が寝ているはずだ。
 私が「臨床犯罪学者」という称号を与えるほど希有な、長年の友人が。
「どうした」
 ───いつもの、友人の声だ。
 見ると、友人は、体をこちらに向けて、自分の腕を枕にしながら私を見ていた。
 探るような視線に、私はふっと首を振る。
「なんでもない。夢を見ただけや」
 そう答えてから、私はいつもと逆のパターンであることに気づいた。
 夢を見て、飛び起きる。
 それは、隣の布団に寝ているこの友人にはよくあった。
 悪夢であろうことは、想像だに難くない。
 私はそれに気づいて目が覚めるのだが、この友人はすぐに私が寝ていることを確かめる。
 それは当然、気づかれたくないのだ、ということが分かるから、私はそうそう簡単には目が覚めない世にも愚鈍な男を演じ、目を伏せたまま彼がまた眠りにつくのを待つ。
 今は、それの逆だ。
 ただ違うのは、この友人は私を放ってはおかず、声をかけてきたということだ。
 私とは違う。
 本当は、彼もそうやって声をかけられることを待っていたのだろうか?
 黙っていることは、間違いだったのか。
 どちらが本当の優しさだったのか、私にはわからなくなってしまう。
「…どんな夢を見たんだ?」
 聞いてくる友人に、また同じような考えが巡って、私は苦く笑った。
 聞くなよ。私がついぞ、いうことが出来なかったその言葉を、そうもあっさりと。
 私は両手で顔を覆った。
 ───ややして、友人が起きあがる気配がした。
 
 まだ、体中にあの感覚が残っているような気がした。
 
 ───夢の中には、彼がいた。
 強靱な精神力を持って犯罪に向かう臨床犯罪学者。そうでありながら、どこか危険な脆さをうちに抱えた、私の友人が。
 彼の体は、上から下まで全身ずぶぬれだった。
 ただしそれは、限りなく闇色に近い赤───血によって。
 何をしたのか、わからない。ただ、彼は血を全身に浴びて、そこに立っていたのだ。
 息を飲む私の前で、虚ろな視線が、突如として嬉々としたものにかわる。
 その恐ろしいほどの変化。
 私は震えた。
 血に濡れた自分に怯えるでもなく笑う彼が、心底恐ろしかった。
 ───そうだ。彼は言っていた。
「俺は人を殺したいと思ったことがある」と。
 その、狂おしい衝動と激情を、彼は解放することなく自分の中に押し込めた。
 それのせいなのか? 体中に浴びた血に、眠っていた狂気がよみがえったとでも言うのか?
 彼が、笑いをとめてこちらを見た。
 その表情を、一体なんと表現したらいいのか分からない。私が見てきた彼のどの部分ににも当てはまらない、危険な微笑。
 嬉しそうに細められた目。皮肉気に端があがった唇。
 ───世界で最も美しく鮮烈な色。
 そこから放たれた言葉に、ぞっとした。
 ───恐怖と共に、恍惚感すらわき上がる、この色。人間の持つ、最も美しいものだ。
 彼は、私をじっと見たまま、そう言った。
 ───そうだろう。
 私は答える。
 ───それこそ、生きている証だ。
 震えそうになる声を、必死で押さえながら。
 ───だったら。
 彼が、ぐっと、私の肩をつかむ。その圧迫感に、体中が総毛立つ気がした。
 ───お前のその証を、見せてくれ。
 その意味を理解する前に、私の体は、左肩から斜めに、一気に切り裂かれていた。
 
 朱に染まる視界に、私は悲鳴を上げて叫んだ。
 ───違う。
 その領域はお前の場所じゃない。
 あらん限りの声を振り絞って、叫ぶ。それしかできない自分が歯がゆく思える程に。
 そこは、お前の場所じゃない。
 確かに、お前は一度、そこに足を踏み入れようとした。でも、お前は踏みとどまったんじゃないか。
 その狂気はすでに意味をなくしているはずなのだ。
 まだ間にあう。間に合うはずだ。
 私は祈るような思いで叫んだ。
 
 戻ってこい───火村!
 
 そこで、目が覚めた。
 
 切り裂かれた場所が、夢であるにもかかわらず、妙にうずく。
 それを抑えつけるように私は身をかがめた。
「───…が…」
 ぽつりとしゃべり始めた私を促すように、彼が言う。
「…言っちまえば、楽になるぜ」
 私は小さく笑った。
 それこそ、お前が夢を見てうなされるたびに思う、私の台詞だ。
「…カニがな」
 私の口をついてでた言葉に、彼は胡散くさげに眉を寄せた。
「…かに?」
「そうや。それこそ俺らほどもでかいカニが、チェーンソーのような切れ味をほこるはさみを振りかざして俺らを追いかけてきたんや。
 ようよう逃げ切ったと思って安心したところで、お前がとっつかまった。
 器用でグロテスクなカニの足が、体の自由を奪って動けない。
 そこに、でかいはさみがせまってくる。
 俺は絶望的な声で、お前の名前を叫んでいた」
 仮にも物書きを職業にしながら、なんともまずい話だ。
 自分でも情けなくて笑いたくなる。たくなる、ではなくて、実際笑ってしまった。それはどう見ても自嘲交じりの笑いではあっただろうが。
 友人はひそめた眉を戻すこともなく唇の端をあげた。
「さすがに、世間に一石を投じるような話を作りだしてる先生の見る夢はひと味違うな」
 ことさら「先生」を強調するところが憎らしい。
「カニの喰いすぎだ。頭冷やしてさっさと寝ちまえ。くだらねぇことで起こしやがって」
 はきすてて、友人はごろんと私に背をむけて横になってしまった。
「そうする」
 私は笑いを納めて立ち上がった。
 聡い彼のことだ。こんな話、信じちゃいないだろう。
 彼は深くは追求してこない。だが、声をかけてくれた。それだけで、この心は軽くなる。
 そうなのだろうか。やはり、私は聞くべきだったのか?
「言ってしまって楽になったわ。今度は夢も見ずに眠れそうや」
「俺の方が今度は変な夢見そうだぜ。妙な話聞かせやがって」
「すまんな。俺は大学のセンセみたいに高尚な夢は見れんのや」
 ───その言葉は、彼にはどう聞こえたのだろう?
「さっさと寝ろ」
 そう言って、彼はそれなり口をつぐんでしまったから、彼がどう思ったかなど、私には知りようがない。
 時計を見たら2時をちょっとまわったところだった。
 まだ、夜は明けない。
 私も彼もまだ、まどろみの中にいる。
「おこしてすまんかったな。おやすみ」
 言って、私は部屋を出た。
 どうせなら、大浴場にでも行って来るか。たしか、24時間開いていた気がする。
 一人でゆっくりと大浴場の湯船に浸かって、さっきの夢は解放して忘れてしまおう。
 彼が向こう側に行ってしまうかもしれない恐怖は、確かにある。それは消えない。
 それは、私が彼が経験してしまった激情を知らない、その差なのだ。
 だが、彼はきっとここに戻る。
 ───大丈夫だ。
 楽観的だと誰もが思うだろうが、それを信じられなくて、どうして彼を信じられるか。
 フィールドワークと名を打ち、向こう側の縁に自ら立とうとする。その犯罪と犯罪者への憧れに似た憎しみ。
 それが癒されることを、ただ───祈る。
 
 大浴場から帰ってくると、彼は眠ってはいたが、妙に苦しげに眉を寄せていた。
 一瞬、あの悪夢でも見ているのかと思い、しばらく息を潜めて眺めていたが、どうも違うようだ。息もつまるような苦しさを感じられない。
 もしかしたら、案外巨大ガニにでも追いかけ回されているのかも知れない。
 そう考えて、私は彼には悪いが笑ってしまった。
 起きあがってきたら、まず聞いてやろうか。
 今までついに聞けなかった言葉。
 
「何の夢を見たんや?」
 
 彼は、なんと答えてくれるだろうか?


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